昭和50年06月05日 朝の御理解



 御理解 第29節
 「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ、桜の花は早う散る、梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」

 桜の花の信心と梅の花の信心、まぁこの御理解に付いては色々適切に、今まで頂いて来ております。今日は桜の花の信心と云うのは表行的な信心、そう云う風に頂いて貰いたい。梅の花の信心とは心行的信心。昨日神愛会でしたから、昨日は思い掛けないあっちこっちからの、先生達が新たな方達が二、三人見えておりました。色々御話しをさせて頂きました。又は聞かせても頂いたんですけれども、新たに見えた先生方に私が、合楽に見えてからの第一印象と言うか。
 お広前に見えて何を一番にお感じになったですか、と言う事をお聞きしましたら。あちらは何と言いますか添田ですかね、昨日で二度目のお参りです。総代さんと同道でお参っとられましたが、私はこちらにお広前にお引寄せを頂いて一番初めに感じた事は、此処の神様は生きて御座ると云う事を感じたと言われました。此処の神様は生きて御座る、それはお供えが沢山高価な物がお供えしてある、そう言う事とは全然関係ない。只神様は生きて御座ると言う実感でした、と言うお答えでした。
 福岡の宮崎と言う先生が見えとられました。私はこちらに参りますたんびに、頂く御理解の素晴らしさにま驚きました、と言っとりました。から昨日は岡山から見えとりました、丁度一年前に此処で青年教師の方達の、天地日月の心の本が出ましたですね。あの内容、あのあれをお話した時の会合に是非出席したいと思うとりましけども、出来ませんでして、是非天地日月の心を読まして頂きましてもう、あの内容をね解らせて貰へば貰う程、兎に角一遍合楽にお引寄せ頂きたいという念願が適うて。
 昨日はそういう神愛会教師会があっておるとは知らずに見えられた。丁度その帰りに合はれた事を大変喜んで帰られましたが、丁度一時の御祈念を此処で一緒に頂かして貰うて、ふと御祈念中に私は一時の御祈念がちょっと此処え出て来るのが遅かったんです。それでそこで御祈念をなさっておられて、ちょっとこちらの御結界を見たら先生が坐っておられるのを見た途端にねもうドキッとしましたとこう言っておられます。
 そして又改めて見たら、何と眼光の鋭い先生だろうかと思いました。それはあのう達磨大師の眼の玉の様なものを先生に感じました。是が此処へ参りました第一の印象でした。此処へこうやってまぁ膝つき合わせてお話を聞いたりさせて頂いたりしておると、そうではない言わば優しい先生だけれどもと、こう云う事で御座いました。まあ三人のそうした初めての先生方の、又は此処に一、二回しか見えた事のない先生方の合楽のそれが印象です。そう言う様なものがです。
 私くしはどう云う様な所からそう言う様な、言うならばたたずまいとでも申しましょうか、又はそう云う風に見える人柄とでも申しましょうか、様なものが育って来ただろうかと言う事です。私くしは思いますのに成程、私しの修行中とでも申しましょうかね、椛目に人が助かる様になりまして、それでも暫く表行が続いておりましたけれども、表行はもうそれからもう間もなく終わりました。もう全然表行は致しません。只まあ今から考えますと信行一本で来た様に思います。
 此処で信心をなさる方、又は修行をなさる方達は矢張り、もうそれこそ人の真似の出来ん様ないろんな表行もなさいました。所がその、その先生方の信者さん方の表行をなさる事はそれは一つの打込みですから素晴らしいですし、おかげも受けられますけれども、確かにその表行で鍛えて行くと言う信心はすうっとしますね。表行を止めたら、もうすうっとする。例えば一番良い例いなんかは、あの瀧先生なんかの場合はです、人の真似の出来ん表行を致します。
 十五日間の断食をしましたが、まーだ益々元気が出て来るですよ、ね、頭は冴えて来るし、だからもう十五日さして貰うちお届けしましたから、その時だけはもうやめとかんのち言うちから止めました。と言う様にもう表行にそのうかけてはそのう素晴らしいそのう修行が出来る人がです、なら事心行となったらそれを止めた途端に生活が乱れて来るのです、この人は。だから是は極端ですけれども、誰の場合だって同んなじです。それは成程表行には表行の良い所があります素晴らしいね。
 けれども金光様の御信心、今日の御理解、梅の花の信心と言う事には当たりません。桜の花はもう花はぱっと咲いても散るんだと、梅の花は花が咲くだけでなくてです、言うならば実が実ると云う事です。 桜の花の信心がおかげを頂くと言う信心なら、梅の花の信心は、だからお徳を受ける信心です。そう言う信心を私くしは、然かも二十五年続けて来ておる所にです、ね。皆さんはどう感じられたか知りません。
 それは毎日朝晩こうやって一緒にお話を聞いて下さったり、お引寄せ頂いた方達はです、本当に合楽のお広前に出るとです、神様が生きて御座る。あヽ親先生は怖い眼光が鋭い、本当に御理解を頂いて、只もう驚くばかりだと皆さん頂いておられますけれど、そう言う実感を以ってなら合楽を見たり私くしを見たりなさっておられるだろうか、宮崎先生の言われる様に、此処の御理解を頂いて驚いたと言われる様に、その驚きをもって頂く程しの御教えであるならばです、もちっと御教えが身に付かなければいけん。
 只有難い素晴らしいで、聞いとるだけではつまらんと言う事です。ね。昨日の朝の御理解を又改めてテープで聞かせて頂き、又先生方にも聞いて頂いたんですけれども、それこそいみじくも、昨日のあの御理解が先生方がどうでも頂いて貰わにゃなきゃならん。合楽に御神縁を頂かれたら、あの真似でもして貰わにゃでけんと言う程しの、言うなら合楽の信心の御比礼の基と言った様な所が説いて御座いましたのを、改めて聞かせて頂きまして、それを感じました。
 そう言う例えば信心が表行から善からは生れて来ないと云う事。ね。勿論あれは神様にお知らせを頂いたり、私しの言うなら信心から表れて来る体験がです、そのう是が高められなければお話しも高度のものになって来ないです。ですから本当にあのう初心な心と云うか、新らな心と言うのが如何に大事かと云う事が解ります。お引寄せを頂いて、先ずお広前に坐る座る迄にです、言わば云うなら神様の生きた息吹きに触れる思いがする様な実感で、此処のお広前に坐られたら眠気なんか付きやしません。
 神様所謂神秘と申しますかエレキと申しますか、たしかにそう云う物が漂っておると私ふしも思います。私くしが毎朝晩、内殿に入らせて頂くたんびにそれを感ずるです。そう云う様な物がですね、それが絶えず是はもう四、五年も前だったでしょうか、此処が出来てすぐだったでしょうか。八波と言うお教会から御本が出ておりますので。毎月送って下さる櫻井と言う先生がおられます。此処へ見えられてそしてそれを、此処へ見えられたその感想を本に書いておられます。
 兎に角あちらに着いて先ずあのう大理石の柱に先ず心を奪われた。そしてお広前へ進まして頂いてです、それこそ御神徳溢れるばかりの小広前だと表現しとられます。是はね見てからあのう見た目と言うのジャーないです、心に感ずることなんです心に響いて来るんです。だからそう言う感じ方をさせて頂けれる日々でなからなければです、生きた働き生きたおかげは受けられないです。ね。
 もう此処のお広前も自分の家も同んなじ様な感じも、言うならばそれはどう云う事かと言うと、言うなれば神様をなめとる様な事ですから、おかげを頂ける筈がありません。
 お話を頂きながら眠るなんて、もう愈々神様をなめた姿勢、心がそうなる、ね。その位な私しは気持ちでなからにゃならんが、そう云う風な、言うならば先生方のそのうま合楽評ですかねを聞かせて頂いて、そう言うものがです唯表行が出来たり、お広前などには出来る筈はないと思うです。
 言うならば眼光鋭く感じたと、それこそ初めてお結界に坐っとられる先生を見てから、ドキッとしたとこう言われる様なです、物がね何処から生まれて来たかと云うと、言うなら二十五年間倦まず、撓まず心行に取り組んで来たと云う事のです、賜ものだと私は思います。そこにはですならあちらに退らして頂くとです、なら厳しいはぁ御結界では言うならば、坐っとられる先生はまあ眼光鋭いと言う感じだけれども、実際膝突合せてお話して見ると、それとは反対に言うならば。
 私くしが何時も言う様に、私しの信心の内容は、軟う堅うと云う事を自分でも思います。日蓮的な信心と親鸞的な信心とが同居しているんだと言った風に表現してますね。私しはそう言う様な物がです、私くしは二十五年間の間に、言うならこう鍛えられて来た、心が練られて来た、それが自とそう言う風に出て来るのではないかと思います。私しは今朝の御祈念にそんな事を思わせて頂いとりました。
 私くしの信心又は合楽のお広前の信心を評して、先生方が言われたその事を思わして頂いとりましたら、常の花と云う事を頂きました。常持の常ですね常の花ちゅうのは何か関取かなんかおった様な気が致しますね。常の花ねまぁ相撲取りの四股名です、と云う事は是は力持ちと言う意味だと思うのです。私しに例えば力がもしあるならば常の花、しかも力が出来ただけではなくてです、常に心から信心の喜びを絶やさないと云う事です。是はとても表行位から頂けれる事じゃ絶対ないですね。
 表行しておる時だけは何か知らんけど有難いけども、表行を止めたらすうっとすると言うのが、表行の言うなら欠点です。ね。おかげ頂かれん事なったら、又山にでも登って滝の水でも頂こうとか、断食でもするとか、又ガタガタと崩れてしまう。そして又入るそう云う事ではね、そう云う事でもし人が助かっておると言うならば、それは只助かる、その刹那的な助かりであって。
 梅の花の様な、私くしは実が稔る様なおかげにはならないと思う。今合楽で言われておる、願った事が右となろうが、左となろうがです、そのおかげである事実を、言うならばお取次をさせて頂く者も、お取次をまた受ける者も、お取次ぎを頂いての事であるから、おかげであると。先日高橋さんの所の、あの時に教八と言う事を頂いた教えの八。神の教えた事は必ずおかげになると、私も確信してお取次をさして貰う。
 お取次を願う皆さんも親先生のお取次を頂いてからの事であるから、それは自分の思う通りにはなってなくても、それがおかげの基になると確信出来る信心です。そう言う信心が身に付いて来なかったら、桜の花の信心です。そう云う信心がもし身に付いて来たら、もう信心はお道の信心は止められない、又は事実それがおかげにもなって来る、体験を頂いて行く事が出来るでしょう。
 お取次を頂いてからの事であるからと、それが必ずおかげの元になるんだと、願うた事が願うた様になったのがいけないと言う事じゃない。そりゃどちらになってもおかげだと頂けれる信心こそです、私は梅の花の信心からしか生まれて来ないと思うのです。今の合楽では、どうでもこの梅の花の信心を愈々身に付けていかねばならない。言うなら心行的心行しておる、心行はもう絶えず出来る事であると云う事です。
 咋夜夜中にお風呂を頂きました。もうそれこそもう見事にとり片付けてありました。私が上がって来る時と同じ様に、只窓のそのガラスが締まってなかた、それだけじゃった欠点は。だから私しは本当に有難いと思うと同時に、皆さんがこう云う風に段々、ね。私が風呂の例でばっかし申しますから、こんなにキチッと出来る様になったが、このキチッと出来ると云うその事をです、自分の部屋の上でもお広前でも、又は自分の信心も此の様にして行かねばならないと言う。
 私が何時もお風呂を例にとるから、お風呂だけそげんしたとじゃいかんとです。自分の生活がそうならにゃいかんとです。心の中が散らかっとちゃならない、何時も心がキチッと、こう軌道の上に乗っとらなければならない。しかしこりゃ本当に有難い事だなぁ、その風呂場一つでもですそう云う風に、私の願いが段々出来て来ておると云う事はです、それをそのまま自分の生活の上にも、そう云う生き方を現して行くね。
 と言うのですから、もう絶えず心行と云う心が行の上に動いておる、心が動いておるだから、そう言う心に感じた事を、そう実行して行かねばおられない。言わばそうしなければおられないと、云う所にです喜びは絶えない。所謂常の花的な力も出来て来るでしょう、常に自分の心の中に、所謂和ぎ賀ぶ心、私くしが今日この二十九節から頂きますのは。天地書附ですね。天地書付はもう絶対心行からしか生まれて来ない。
 是はもう私しは絶対そうです、表行からおかげは生まれて来てもです、言うなら和賀心と言うものは、心行からでなければ生まれて来ない。だから所謂金光様の芯とも言われ、眼目とも言われる。天地書附を自分の物に、心に頂いて行くと言う意味に於いても、如何に心行が尊いものか、大事な物か解る。その心行から又次に生まれて来る物がです、お取次を頂いて起きて来た事が。
 右であろうが左であろうがそこの時点でおかげと頂き止めれる心です。ね。そこには辛抱が要ります。けれども辛抱そういう頂き止め方をさして頂いて、成程あれがおかげの基になった、と言うおかげになって来るんですから、辛抱が要るです。あぁあの時は難儀な事だ、困った事だとは思うとったけれども矢張りあれが、こげなおかげの基になったとなるのには、矢張り時間が掛かるのです。ですから信心辛抱です。ね。今日はこの御理解二十九節をね、今合楽で言われておる合楽の先端とも思われる言うなら心行。
 しかもお取次を頂いて起きて来る事、右、左と言わんで済む信心、それをおかげと頂き止めれる言うなら信心。そう言う今の合楽の信心の動向と云う物がですね、動向をです言うならば今日は二十九節から頂いた事になります。どうでも本気で、所謂梅の花の信心を目指さして貰い、花が咲くだけではない、鶯が来て止まるだけではない、そこに結実、徳の言わば結実と云う物が有る所の信心、と愈々目指さなければいけませんですね。
   どうぞ。